「我が家の話し」
田邊 涼子
父が見えなくなる、とはっきり聞かされたとき、私と妹にはことさら大きな衝撃のようなものはなかった。よくドラマなんかであるような、悲しい言葉が鳴り響き、涙ながらに家族で手を取り合い、 「これからどうしよう」なんていう、そういうシーンも全くなかった。そのとき私の頭に浮かんだのは、「そうか・・・。」という納得というか、肯定の様な思いと、「私はこれから自分と父と家族のためになにができるのかなあ」ということだった。やけに冷静だった。誰かがそのときの私の顔を見たら、無表情だといったかもしれない。我が家は父が網膜色素変性症で、母は気管支喘息である。
私が小さい頃から母は何度か入院をしていて、私の記憶の中の小学校時代の三分の一ぐらいは、母が家にいない。父はまだそのころ、網膜色素変性症ではなかったので、小学生と幼稚園の二人の娘の世話と会社というハードな日々を送っていた。
周りの人たちは、私たちに同情してくれて、「たいへんでしょう」とか「寂しいでしょう」などと心配してくださったが、大変ではあったが、寂しくはなかった。そして入院している母に対して文句や愚痴を言うこともなかった。
それは、父のおかげだと思っている。父は、母の前でも、私や妹の前でも、一度も愚痴や文句を言わなかった。それどころか父はいつも明るかった。その場で立ち止まってしまわず、いつも前を向いていた。
それが父の性格だといってしまうのは簡単だけれど、そのために父がどんなに努力したか、考えてみればこれはすごいことだとおもう。母が入院中のある日の夕食後、父は一冊の本を出してきて、私たちに詩を読んで聞かせてくれた。心にゆとりをもとうとし、また私たちにもそうであってほしいと思ったのだろう。
そして、父の目が見えなくなったとき、今度は母がその役割を果たした。
母は、自分の体におこる障害が、どんなにつらく、乗り越えるのが難しいかということを自ら体験してきた。
しかし、人間は必ずそのつらさを乗り越えられるということを身をもって感じてきたからこそ、自分の夫の、目が見えなくなるという事実を、そのまま受け止めることができた。ごまかしもしないで、オーバーに騒ぐこともせず、ある意味で黙々と。母もやはり、その場で立ち止まってしまうのではなく、すべてを認めた上で前へ歩いていこうとする人なのだ。
しかしそれも、父自身の努力無くしてはできないことだと思う。
私は、いつもの父の、目が見えないという事実を忘れないようにしている。それが今の父のあるがままの姿だからだ。でも同時に、いつもそのことにとらわれないようにしている。そうすれば、私にとって父としての部分が薄れてしまうからだ。
父の努力を思うと辛いときもあるが、それに対して、私ができることはなにか、そう考えながら毎日暮らしている。(いつも考えているというのは違うけれど)
なるべく前を向いて、元気よく。時々立ち止まって考えることもあるけれど、次の一歩を必ず踏み出そう、というのが我が家ではないかな、と思う。